第一部 1〜8章 

 

【2】1:7〜6:8  八つの夜のビジョン
(5) ビジョン5 (4:1〜14)   金の燭台と二本のオリーブの木
   ここでは、指導者「ゼルバベル」に対するメッセージが語られます。
眠りから目覚めさせられたゼカリヤにみつか御使いが、「あなたは何を見ているのか。」と尋ねます。神が預言者の視覚を通してメッセージを語られるときのいつもの手段です。ゼカリヤが見つめていたのは、祭司だけが入室を許されていたかつてのエルサレム神殿の聖所に置かれていた『しちし七枝のしょく燭だい台、メノラ』でした。モーセの時代の幕屋には一台 、ソロモンの神殿には十台置かれていたもので 、しん芯が整えられ、油が絶えることなく補給され、燃え続けていたメノラの火は霊的には途切れることのない祈りを象徴するものであり 、また世の光としての主の民の働きを象徴するものでした。
   しかしゼカリヤが描写したメノラは主がモーセに命じて作らせたものとは異なり、自動的に油が補給されるように、「二本のオリーブの木」(3節)につながれた「」を持った非常にユニークなものでした。「七つの管」(2節)とは、芯に到る吹き口のことでしょう。芯を整える祭司のい要らない自給自足のこの金のメノラは、地上に設けられた聖所 に投影された天に存在する本物だったのかもしれません。
眼前のメノラが何を象徴するのかをはか測りかねたゼカリヤに返ってきた答えは、ユダの王エホヤキン の孫「ゼルバベル」への励ましのメッセージでした。ダビデ王家の血筋を引くとはいえペルシャ政府の支配下にあって、ゼルバベルは限られた権力を行使することしか許されていませんでしたが、ユダの民を統率する総督の指名を受け、エルサレムに遣わされていたのでした。ゼルバベルにとって、廃墟と化したエルサレムで難民ユダの志気を奮い起こさせ、神殿再建に取りかからせる仕事に従事した十六年間は、決して楽なものではありませんでした。
しかし今、ユニークなメノラのビジョンを通して、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(6節)と、民のいのち生命のともし火が人間のわざ業によって維持されるのではなく、生命の源、補給主なる神ご自身によってまかなわれることが知らされたのでした。政治的権力によるのでも、人間の知恵によるのでもなく、神の霊の働きによって必要なものが供給されることが教えられたのです。ゼルバベルにはさらに多くの励ましのメッセージが与えられました。「大いなる山よ。...平地となれ。彼は、...かしら石を運びだそう」(7節)と、現在は到底不可能と思えることが可能になること、ゼルバベル自身がすでにいしずえ礎がす据えられた神殿に喜びあふれて「かしら石」を据え、完成させる者となること、民がゼルバベルをその血筋によってではなく、主の選びによってつか遣わされた者であることを知るようになること、再建される神殿の規模に失望した者たち も、完成の喜びを分かつようになることが、告げられたのでした 。

出エジプト記25:31〜40、捕囚後はおそらくバビロンへ持ち去られたのでした。エレミヤ52:19
歴代誌第二4:7
レビ記24:1〜4、マタイ5:14〜16、ルカ12:35、ヨハネ8:12、ピリピ人2:15、黙示録1:20、2:5
ヘブル人8:1〜10
別名コナイヤ、597BCE、第ニ次捕囚団と共にバビロンに捕え移された王、新約聖書マタイの福音書1章の系図では、「エコニヤ」


   『七つの目のある石』は、大祭司ヨシュアにとっては、全てを見ておられ、全てをご存知の全知全能、何事、何物にも揺るがない不動の主を象徴するものでした。すなわち、主は神殿奉仕の任をつかさど司っている祭司ヨシュアをきよ聖く保ち、主の聖なるわざ業にたずさ携われるよう見守ってくださっているのでした。
他方でゼルバベルにとって石は、民の間に臨在され神殿建築の作業を見守り完成へと導いてくださる主を象徴するものでした。10節は、NIV(新国際訳英語聖書)では、「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。人々は、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。」(囲み表示をした「人々」が邦訳では「これら」) で、ゼルバベルの手にある下げ振りが人々をしてわざ業の完成を確信させることになることが読み取れます。人々から見くびられるように小規模で始まった作業がゼルバベルを通し、主によって大きな業として完成するという預言で、ゼルバベルをしてそのことを完成させしめるのは、6節の「わたしの霊によって」ということになるのです。ヘブル語聖書では、七倍の大きさに完成するとなっています。
さらに、「二本のオリーブの木は何ですか」(11節)というゼカリヤの質問に御使いは、それらが主に仕えるために油注がれた二人の指導者 を象徴するものであることを告げます。それは紛れもなく主の業すいこう遂行のためにつか遣わされた、ヨシュアとゼルバベルのことでした。この二人の指導者には、祭司でありかつ王であるという資格を満し、その両方の役割を担うべく来られる「救い主」が象徴されており、また、彼らの働きには、民全員が待ち望んでいた救い主の地上でのおんはたら御働きが予兆されていたのでした。
またさらに、これら「ふたりの油そそがれた者」を通して多くの油注がれる人々 が、「主のあか証しびと人」として全地で光り輝くようになる、すなわち、主の業が全地に満ちるようになることを眺望しているこのビジョンでは、油の源が全ての供給源である主であることは明らかですが、地に植えられた木(「二本のオリーブの木」)がなぜ神から来る源として象徴されるといえるのかに疑問が残るかもしれません。聖書では、植えられた木は『神のような人』 、あるいは、『地上に建てられた王国』 を象徴する以外には用いられていないからです。しかし、この二人の油注がれた者に象徴されているのが、人間として地上に降誕されることが預言されていた神のみこ御子イエス・キリスト、すなわち、100%神であると同時に100%人間でもある方であったとしたら、この疑問は解決されることになるのです。

エズラ3:12、ハガイ2:3、ソロモンの建立した最初の神殿、エルサレム第一神殿の偉大さを覚えていた者たちは、再建のための礎が据えられた時、規模の小ささに失望して嘆いたのでした。
7〜9節
「下げ振り」は、ヘブル語では7節の「かしら石」への言及とも捉えることができます。
14節
「七つのともしび」に象徴されているのは、最大限に多く(完全数七)の「証し人」たちです。
詩篇1篇、92:12〜15、エレミヤ17:7〜8
詩篇80:8〜13、エゼキエル19:10〜14


聖書一人