[4] 7章  忠実な者に成就する約束 

語り手はミカ、イスラエル、神の三人で、対話の形でメッセージが語られています。

(1)7:1〜7  社会の退廃を嘆く預言者

   まずは、堕落したイスラエル社会に対するミカの嘆きの言葉で対話は始まります。
収穫の後に、すなわち、時節ではないときに「夏のくだもの」、「ぶどうの取り残しの実」(1節)を見つけることはけう稀有なことで、預言書では、信仰深い人を見つけることの難しさに象徴的にたとえられています 。あるいは、収穫が終わってしまったら実を期待することは所詮無理、もう救いのチャンスはないという厳しさが暗示されているのかもしれません。ミカの捉え方はまさにそれを裏付けるかのように、「人の間に、正しい者はひとりもいない」(2節)という結論になっています。
イエスがエルサレムに勝利の入場をされた翌日、ベタニヤから再び都におもむ赴かれる路上で、実のない「いちじくの木」を見て呪いをかけられ、枯らしてしまわれたという出来事が、マタイ、マルコ両福音書に記されていますが、マルコはその状況を、「イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである」 と描写しています。季節ではない「いちじくの木」に実が無かったとしても当然なのに、なぜイエスはそのような短気を起こして木を枯らしてしまわれたのだろうかと不可解に思うくだり件ですが、預言者ミカの嘆きの背景にあったのがイスラエルに下ろうとしていた刑罰であったことに関連させれば、ここでイエスが嘆かれたのがエルサレムに下ろうとしていた裁きであったことが明白になって来ます。すなわち、信仰深い者をひとりとして見つけることのできない背信のイスラエルから都エルサレム、神殿がともに奪われる日が来ることを主は、イスラエルを象徴する「いちじくの木」を枯らすという象徴的行為によって預言されたのでした。
   さて、ミカが鋭い洞察力で観察したイスラエル社会には高潔、誠実を美徳とする古来の伝統的価値観、社会秩序はもはや消えうせ、犯罪、暴力、闘争が町という町に満ちていたのでした。網は鳥や獣をつか捕まえるわな罠として用いられていたのでしたが、今や人を陥れるためにありとあらゆる手段で罠が張りめぐ廻らされているのが現状なのです(2節)。不誠実な生活振りは一般市民から国の指導者のすべてに及び、賄賂、詐欺など不正、不法が堂々とまかり通っていました(3節)。金力のある者は、たとえ犯罪者でも金権に物言わせてしゃめん赦免されるなど、矛盾が公然と行なわれていたのです。
   4節の邦訳は英語訳の聖書と随分異なっています。次のように解釈されるべきでしょう。ミカが評価した正しい者のいない社会とは、「最も正しい者でもいばらのよう」で、「正しい者といってもそのほとんどが、いばらの生け垣よりもひどい」状態にたとえることのできる社会で、すなわち、「見張人」の役割を担っているはずの神の預言者でさえ、神のおきて掟から遠く離れ、堕落してしまった同胞を非難することも警告することも出来ないままに、ついには災いの日、刑罰の日が来てしまうという恐ろしい状態にあるのです。
「神の言葉」を勇気をもって語ることができず、一部のにせ偽預言者が語っていた『神の裁きがイスラエルに下ることはない』という預言にか賭けていたこういった不信仰な預言者たちは、その刑罰の日には、あわ慌てふためき、混乱状態に陥ることが目に見えています。「神の言葉」をさんざん散々無視してきた今、神に救いを求めて立ち返るにはもう遅すぎるのです(4節)。
社会の堕落は個々の人間関係に影響を与え、社会の最小単位である家庭にもすでに亀裂が生じていました 。このように堕落した社会にあって、堕落した同胞に囲まれて、絶望的な状態にありながらも、しかしミカは、最後まで神に信頼し、「神の言葉」を忠実にユダの民に取り次ぐ重責を担う決心をまた新たに表明したのでした(7節)。

 

聖書一人