【6】 受難と復活              22:1〜24:5






 (2)受難週 22:1〜16
イエスは、ペテロとヨハネに過越の食事の用意を任せられました。「水がめを運ぶ」(10節)のは当時女の仕事でしたから、イエスは女人禁制の修道僧の住む修道院の大広間を借りられたようです。
イエスの時代には、パリサイ、サドカイ、エセン、熱心党の主に四つの政治的、宗教的グループがありましたが、エセン派は儀式的な清めにおいてパリサイ派よりはるかに厳格で、結婚始め、世俗的な生活を避け、動物犠牲も回避し、孤立した共同体の中で、独自の宗教暦(たとえば、一日の始まりも、日没から始まるユダヤ暦とは異なり、日の出前の早朝の祈りで始まるとみなした)に従った生活をしていました。エルサレム市内はじめ界隈の修道院に住み、ゲストハウスを設け、接客を実践していたようです。ちなみに、洗礼者ヨハネがこの派の一員であったと主張する者もいるようですが、影響を受けていたことは確かでしょうが、「神の子羊」「唯一の救い主」「神の子」「火と聖霊によるイエスのバプテスマ」を主張した点で、エセン派ではなかったようです。
さて、聖書の記録から、イエスは十二弟子と共に、ユダヤ暦の「過越の祭り」より実際には一日早く、エセン派の暦に従って、犠牲の子羊のロースト肉のない「過越の食事」を祝われたという筋書きが描かれます。確かに、ヨハネの福音書は、その日が「過越の祭り」の前であったと伝えています 。この筋書きの正当性に関しては、ヘブル語聖書を考証することによって明らかになります。?補注13参照
修道院の管理人は、「席が整っている」二階の大広間を見せてくれましたが、聖書教師のクリス・ヒルは、これが、客が普段、しも下のことにしか用いない左手で頬づえをつくか、左肘で体を支え、寝転んで寄り掛かるようにテーブルに着き、右手で食事をするという、凹字型のテーブル設定であった、と説明しています 。ヨハネ13章23、25節の「み胸近く席についていた」「イエスの胸によりかかって」(日本聖書協会口語訳。日本聖書刊行会訳は、欄外の訳注の方が正しいようです)という表現で、これは裏付けられます。

   テーブルの窪んでいる側を正面にして、左側が     
貴賓席、右側の一番手前が召使の席とされていまし     
たから、左手前から、イエスの愛弟子、ヨハネ、     
イエス、ユダ、の順に席に着き、ペテロは、イエス  
の教えを実践すべく 、ちょうどヨハネと顔を      
突き合わせる『召使の席』に着いていたとすると、    
《主の晩餐》の記録と一致するのです。

 


ヨハネ13:24の記述も、ユダに関するマタイ26:23、マルコ14:20の記述も、その場の雰囲気が手に取るように分かってきます。ユダに背を向けて席に着いておられたイエスの状態(敵に最も殺害のチャンスを与える無防備な状態)がはっきりした今、「しようとしていることを、今すぐするがよい」 とユダに言われたイエスのお言葉が、サタンにつ憑かれたユダの心をひどく動揺させる、如何に的を射た言葉であったかは驚くべきです。いたたまれなくなったユダは直ぐに席を立ち、裏切り行為を遂行すべく外に出たのでした 。
イエスは「あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか...過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」(15〜16節)と言われましたが、その夜の晩餐は、やがて神の選民が王と共に食事をするその時(来るべき完成された神の国での婚宴の時)の前味わいだったのかも知れません。

(3)受難週 22:17〜53
―マタイ26:20、:26〜29、マルコ14:17、:22〜25、ヨハネ13:21〜30―    
   通常の「過越の食事」は、儀式と飲食を交互に交ぜて行なわれました。
(1) 祝福と祈り。一杯目のぶどう酒(『感謝と交わりの一致』の盃)と、香菜
(2) 過越の由来の語り。詩篇113篇賛美。二杯目のぶどう酒(『祝福』の盃)
(3) 祝福。食事(子羊のロースト、種なしパン、苦菜)
祈り。三杯目のぶどう酒(『血による贖い』の盃)
(4) 詩篇114〜118篇賛美。四杯目のぶどう酒(『完成』の盃)
マルコ14:26によれば、イエスと弟子は、四杯目のぶどう酒を飲まないで賛美しながらオリーブ山に向かったようですが、ルカは特に、二つの盃(おそらく、一杯目と三杯目)を強調して晩餐の模様を記録しています。
19〜20節で、イエスが言われたように、イエスの血は、神と人との新しい契約を封印する(保証する)ものとして流され、引き裂かれた体を通して新しい生命が与えられることを意味します。ですから、イエスを覚えて「主の晩餐」にあずか与ることは、主にある兄弟姉妹との間で、霊の交わり、神の家族の交わり、生命の新生を分かちあうことなのです。イエスが弟子たちとともに食卓に着かれたこの晩の「過越の食事」には肝心な子羊のローストが食卓の上にありませんでしたが、「神の犠牲の小羊」その方ご自身が弟子たちと共に食卓に着いておられたのでした。

日本聖書協会口語訳 ヨハネ13:27
ヨハネ13:30
マタイ26:14〜15、ゼカリヤ11:12〜13
マタイ27:3〜10、エレミヤ19:1〜13、18:2、7:31〜32、使徒行伝1:16〜20


イスカリオテのユダは、へブル語聖書の預言通り、銀貨三十枚でイエスを祭司たちに売りました。ゼカリヤは、銀三十シュケルが「良い羊飼い」に値積もりされた値段であったと語り 、エレミヤは、ユダが後に首をくくって自殺し、まっさかさまに落ちていったベン・ヒノムの谷が「虐殺の谷」と呼ばれるようになると預言しました 。
24〜30節で、イエスは、この世の王国支配とは全く異なり、統治者が仕える者のようである互いに仕え合う世界を来るべき神の国として語られ、そこでは、イエスに従った弟子たちが「王権を与え」られ「イスラエルの十二人の部族をさば裁く」ようになると言われました 。 この世にあって、キリストを信じる者に神の国はすでに到来していますが、すべての者の目に明らかな形ではまだ実現していません。この神の国は、ダニエルが預言したように、イエスの再臨によって具現し、完成するのです 。
31〜34節は、ペテロが自らの罪に気づく前にイエスがペテロを赦されたという、象徴的な問答の箇所です。ここには多くのことが語られています。
(1)サタンは神の許可を得て神の子たちを試みる。サタンの目的は、神の子たちの信仰の挫折である 。
(2)罪の下に生まれた人間はどんなに強い意志を誇ろうと、脅威、誘惑に
惨めなほど弱い 。
(3)サタンが絡む霊の戦いにはイエスのと執りな成しの祈りがなければ、
人間は勝つことができない。
(4)罪を心から悔い、自らの無力さを認め、赦しを請う者は、主の御手の中に置かれ、
過ちを通して一段と大きく用いられる。

イエスを公ではっきりと裏切ったペテロとユダの人生が全く正反対の方向に導かれたのは言うまでもなく、悔い改め(主に向ける改心の念)に導かれたか、良心の呵責(自分に向ける自責の念)に終わったかの違いにあったといえるでしょう 。
35〜53節。イエスが罪人として十字架にかけられた後、人々の弟子たちへの待遇が一変するであろうことは明らかでした。そのことをイエスは、今後、護身、生活面での自立の必要があることを予告して教えられました。そこで、イエスのお言葉を逐語的に捉えた弟子たちが「ここに剣が二振りあります」 と武器を備えることに積極的な反応を示したのでしたが、イエスは「それで十分」と軽く受け流し、それ以上は言及されませんでした。このことから、イエスが武器を取って敵に立ち向かうことを勧められたのでないことは明らかです。
にもかかわらずその直後、イエスの御言葉を武器を用いることの許可であったかのように短絡的に受け止めて、血気にはやるペテロが武力行使するという出来事が起こります 。しかし即座に犠牲者の傷を癒されたイエスの愛の行為を通して弟子たちは、主のみむね御旨が流血を伴う攻撃的な護身では決してないことを学ばなければならなかったのでした。霊の戦いを物理的なこの世の武器によって勝ち取ることはできないのです。あの中世の十字軍のような流血惨事は、あたかも信仰擁護のため、主のためであったかのように後世伝えられている向きがありますが、主のみこころ御心では決してないのです。人間の作り上げた宗教を維持、守るための暴虐以外の何ものでもなかったのです。

 

マタイ19:28、第二テモテ2:12、第一コリント6:2〜3、詩篇122篇
ダニエル7:18、:22〜27、黙示録20:4〜6
ヨブ記1、2章参照
サムエル記下11章参照
マタイ27:3〜5
38節
49〜51節

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