[4]  38〜41章   主ご自身のメッセージ



 

38:22〜39章
   「あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか」(38:22)と、今でこそ顕微鏡で氷の結晶の芸術的美しさ、限りないバラエティに富んだ模様を楽しみ、肉眼では見えない世界に挑戦することのできる時代ですが、紀元前二千年頃のイスラエルの族長アブラハムの時代に生きたとされているヨブに、知られざる世界『雪、ひょう雹の神秘の宝庫を展示する倉』に言及されたのは、他でもない万物の創造者なる神ご自身でした。
ヨシュアの時代、カナン人の五人の王を攻めるため神が天からの武器、雹を用いられたように 、神は天災を武器として自由自在にお用いになられる方です。東風(生き物を枯らし、滅ぼす砂漠からの乾燥風)も、大水も、稲光も、神のご計画の下で自由に用いられ、自然現象でひとつとして意味なく起こることはないのです 。神の配慮は、誰にもかえり顧みられない荒野、廃墟にも及び 、神のみて御手のわざ業は至る所で観察できるのです。万物の父なる神はすべてを生み出し、今もすべてを支配しておられるのです 。ヨブに矢継ぎ早に難問を浴びせかけられた主は、38:30では、大気が冷え始めると深い海、湖、川の水の表面から凍り始めることに言及しておられますが、かつてノアの洪水に伴ってシベリア一帯に突如起こった気候の寒冷化―大地が氷河に閉じ込められる―のことを思い起こされたのかもしれません 。
   大地を支配しておられる神は天をも支配しておられ、季節に応じて星の位置を変えて、人が四季を知ることができるようにしてくださったのです。言い換えれば、地上から見ることのできる天空が限られているからこそ、人は、いつも同じ空模様というのではなく移り変わる天空を仰いで、定期的に四季が巡ってくることを知ったのです 。地に反映される「天の法令」から、人は「法則を立てること」を学んだのです。
38:36は、「だれが、トキに知恵を置いたか。だれが、おんどりに悟りを与えたか」と訳されているNIV(新国際訳英語聖書)の方が邦訳より、自然現象から神の知恵を問いかけている文脈に一致した解釈です。天候を予知する能力のある鳥の不可思議が、神に帰せられているのです。

ヨブ記38:34〜38
マタイ5:45
ヨブ記38:39、箴言22:13、列王記第二17:25
ヨブ記39:27、邦訳では「わし」ですが、30節に記されている特徴は「はげたか」を指しているようです。
ルカ17:37
ルカ17:26〜30


神は天地創造のとき、ご計画の中で将来の出来事であった『ノアの洪水』に備えて、「大空にある水」(創世記1:7)を、大空の下にある水(海、川、湖)と区別し、大気の上に水の層を取り置かれましたが、やがて時が来て、この「天のかめ」(38:37)を傾け、地上に大量の雨をもたらされたタイミングは、紛れもなく神の御手の業でした。洪水後、水が徐々に大地から引き、土が乾き始め、再びいのち生命あるものがせいそく棲息できるようになったそのタイミングをつかさど司られたのも神でした 。

ヨシュア記10:11
ヨブ記38:24〜25
ヨブ記38:26〜27
ヨブ記38:28〜29
シベリアのマンモスが草原で草を食んでいる間にも氷付けになってしまった状況は、まさに「水は姿を変えて石のようになり」という神の言葉に反映されているかのようです。
ヨブ記38:31〜33


38:39〜41は、人にとっては敵である「襲い来るしし獅子」に食物を与え、生かされるのも神で「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせ」 を思い起こさせるくだり件ですが、神はご自分が造られた万物を責任をもって最後までかたよ偏りなく見守り養ってくださる方であることが示されているのです。
   聖書では、獅子がカナンの地(今日のパレスチナ)一帯に生息していたことを示唆していますが 、獅子の化石は未だそのあた辺りでは発見されておらず、このことは、進化論者や
地球上の生命の歴史を何百万年と推定し、地層、化石、石油、石炭などがどれも非常に長い年代、年月を経て形成されたものであると考える者たちが期待するようには、地層に化石が残ることはほとんどないことを示唆しているようです。実際には、動物の死骸は、はげたかなどによってすぐ跡形もなく食い尽くされてしまうのがほとんどで、魚の場合も死後、海底に沈んで化石化するということはまずなく、海面に浮いている間に他の魚や鳥のえじき餌食となるのが落ちで、やはり化石として残るのは非常に難しいということなのです。つまり、化石として原型を留めるのは何か特別な状況下に置かれた場合のみで、今日発見されている多量の動植物の化石、骨などは、神の突然のご介入による『瞬時の破壊説』でしか説明がつかないのです。
   ヨブ記39章では、神がそれぞれの動物に異なった習癖、知恵、力、特徴を与えられたことが、野や山ぎ羊、野ろば、野牛、ダチョウ、馬の例を挙げて語られています。同様に、鷹に季節が来ると南に渡る習性を与えたのも神でした。「はげたか」 には、巣を高い岩場に作り、そこから鋭いがんりき眼力で遠方まで見通し、えもの獲物を間違いなく捕える習性、能力が与えられたのでした。
興味深いことに、イエス・キリストは、このはげたかと同じ習性をご自分の再臨のとき発揮されると語られたのです。イエスが、弟子たちの「人の子の現れる日、どこで救いと滅びとの選び分けが起こりますか?」という質問に、「死体のある所、そこに、はげたかも集まります」 と答えられたのでしたが、このはげたかの、獲物をねらって間違うことなく捕獲する習性と同様に主は、まが紛うことなくご自分に属する者(捕えるべき者)を地上から救い上げられると約束されたのでした。はげたかが遠方からまっしぐらに突進してきて降下したかと思うと獲物を一瞬のうちにさらって再び高く舞い上がって視界から消えるように、その日、主ご自身が救い上げるべき者をすべて空中に引き上げて下さるので、信じて待っている者たちの側では何もする必要はないのです。その日がいつ来ても良いように、常日頃から備えをし、主の御旨を実践する生活をしていればよいのです。これは、このルカ17章のの先行するくだり件で、「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です」 と言われたことを別の表現で繰返されたもので、人々がいつも通りの日常生活をしているときに主の日は突然来るということを教えられたのでした。
   ノアの洪水から学ぶ教訓は、その日、箱舟の戸が神の御手によって閉ざされたときにはもうどんなにいのち命ご乞いしても遅過ぎたように、人間にとって主の再臨の日が来てしまったら、もう遅いということなのです。その日は、父なる神しかご存知ないのですから、人は、何不自由ない生活をしている今主を受け入れ、従うことを決断しなければならないのです。一日、一瞬のうちに全世界が激変してしまったノアの洪水の出来事とアブラハムの甥ロトがソドムの隣町のツォアルにたど辿り着くか着かないかの短時間のうちに、ソドム、ゴモラの一帯が住民もろとも完全に消えうせてしまった出来事は両者とも、「人の子の現われる日」にも全く同じことが起こるという、来たるべき預言に備える確かな覚え書きなのです。
使徒ペテロは、世の終わりにあざけ嘲る者どもがやって来て、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか、先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」 と、神の言葉を信じている者たちを嘲るようになると預言しましたが、そのときペテロは次のように神のご計画の確かさを語ったのでした。「こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれるのです」 。すなわち、ペテロははか図らずも、洪水の前後で世界が瞬時に一変したことを語り、洪水後に新たにされた今日の天地が、再び火の裁きに会う日が来ることを明確に預言したのでした。ここでペテロはノアの世界的な洪水が全地、山々をおお覆っただけでなく、全地、全文明をまっしょう抹消したと語っているのです 。今日、海面下に多くの文明都市の廃墟が眠っていることは周知の通りですが、それらは聖書が明確に証ししている洪水前の世界のまさに滅びの姿なのです。

第二ペテロ3:3〜4
第二ペテロ3:5〜7、下線付加
創世記6:13

聖書一人