| (10)56〜66章 永遠の解放と贖い | |
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(10) 56〜66章 永遠の贖(あがな)いと永遠の裁き 56章以降は、バビロン捕囚から解放された民がエルサレムに戻り始めた頃の時代の預言が語られています。イザヤより二百年余も後の、エズラ記、ネヘミヤ記、ハガイ書、ゼカリヤ書に反映されている時代の出来事をイザヤがこのように正確に預言しているということは驚くべきことです。 預言で扱われている時代は捕囚から帰還後の民の複雑な精神性を考慮せずには理解できない、イスラエルにとって緊張の時代でした。すなわち、祖国への帰還が許されたもののユダヤ一体は依然としてペルシャ帝国の支配下にあり、廃墟と化したエルサレムを中心にユダヤ人の共同体を作り上げていくことは容易ではありませんでした。神の約束のとき(エルサレムでの神殿建て直しに始まる、イスラエルの復興)が到来したように見えるものの、まだ約束の地の完全支配からは程遠い状態というジレンマ、緊張状態の中に生きていたのでした。 多くの点で、主イエス・キリストの初臨と再臨との狭間(はざま)に生きている今日のクリスチャンが経験しているもどかしさ、約束の神の国が主の初臨によって到来したはずなのにまだその完成を見ていない。したがって、主の再臨によって神の国が完全に地上に実現するまでは、善と悪とが平行して支配するこの世の葛藤のただ中に生きなければならないというジレンマと共通点があるようです。この私たちの視点では『完成を待つ期間』は、神の視点では人間に与えられた『忍耐と信仰のテスト期間』といえそうです。 緊張状態が長く続くと途中で待つのを諦めてしまったり、主や主の約束を否定し始めたりする者も出てくることでしょう。たとえ今忠実に主を求め続けているからといって、必ずしもいつも確信ある歩みを続けることができるというわけではないかもしれないのです。このような緊張状態がはらむ諸問題が、イザヤ書の最終大段落56〜66章で取り扱われているのです。 この、新しい世に突入する前にどうしても通らなければならない『終末の時代』の忍耐という課題はまさに、今日私たちが日々直面している問題なのです。
@ 56:1〜8 外国人、疎外された者たちの救い モーセの律法で主の集会に参加することが許されていなかった「社会から疎外された者たち」、またイスラエルの民を呪うような待遇をしたアモン人、モアブ人等の「外国人」[1]にも、確かな救いの宣言がなされます。出エジプト後、異教の地カナンに定住することが約束されていたイスラエルの民にとって、唯一神への忠誠を誓い、保ち続けるために、善悪を教えるモーセの律法はなくてならないものでした。肉体の一部を切断したり、動物に代わる幼児犠牲等、主の忌み嫌われた異教の慣習がカナン一帯にはびこっていたからです[2]。しかし神のアブラハムへの約束「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族はあなたによって祝福される」[3]から明らかなように、主の御旨(みむね)に従っている者は疎外(そがい)者、外国人を問わずすべて「主に連なる」(3節)者たちで、彼らは当初から「呪い」の対象ではなく、「祝福」の対象だったのでした[4]。 ここでは特に、「宦官(かんがん)」に対する同情が表現されていますが、イザヤは、ユダの王族の者たちが異教の地バビロンで宦官にされるという屈辱を受ける日が来ることをすでに予見していたのでした[5]。そのような異教の慣習の(あるいは政治的政策上)犠牲になった者たちがモーセの律法のゆえに呪われることは主の御心(みこころ)でないことは明らかです。 来るべき神の国[6]は、主を優先とする生活をしている者たち[7]がすべて受け入れられるばかりか、彼らにとってもむしろ神の民にも「まさる分け前と……永遠の名を与え」(5節)られるという永遠の救いに与(あずか)る最終目的地なのです。 数世紀を経てイエスの時代、受難の一週間前エルサレムに入場されるやイエスは、異邦人(いほうじん)が入ることが許されてはいたが中で商売することは禁じられていた「聖所の外の庭[8]から、「主の名」を利用し悪徳商法で私欲を肥やしていたユダヤ人商人たちを荒々しく追い出されました[9]。その時イエスの脳裏には、「祈りの家」であるはずの神の「宮」を汚し、「強盗の巣」同然にしてしまっていたユダヤ人同胞に対する怒りと同時に、「宮」から締め出されていた異邦人への測り知れない思いやりがあったのかもしれません。 「神の聖所」、「祭壇」にも、異邦人が近付くことが許される日が来るというこのイザヤの預言は、イエスの切実な願いでもあったことでしょう。このことはまた、8節のイザヤの預言、「わたしはすでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう」を反映させて語られたと思われるイエスのお言葉である「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」[10]からも窺えるのです。
A 56:9〜57:13 邪悪な指導者たちにもたらされた災禍(さいか) 緊張下に生きる共同体が往々にして直面しなければならない《リーダーシップの危機》という現実問題にここで再び引き戻されます。「見張り人」[11]とは、迫り来る危険をいち早く察知し、警告する役割を担っている指導者のことで、「牧者」[12]は共同体を養い強化していく務めに当たる指導者です。ところが民に主を求めるよう指導しなければならない立場にいながら、「自分勝手な道に向かい」「自分の利得に向かって」いるというユダの指導者たちのリーダーシップの果ては、外部の邪悪(じゃあく)で貪欲(どんよく)な者たち[13]に、自分たちの共同体をいいように貪(むさぼ)らせる道を提供しているという無秩序状態です。悪にどっぷり浸(つ)かった共同体では、「義人」「誠実な人」が攻撃されても助ける者はだれもおらず[14]、迷信、似非(えせ)宗教がはびこり、ありとあらゆる悪が正当化されているのです[15]。主への健全な畏(おそ)れは全く無くなり、不健全な怯えにとり憑(つ)かれた民の現在の状態[16]は紛れもなく「神不在」の共同体の産み出した所産なのです。主が「久しく、黙っていた」[17]という表現から、587BCEのエルサレム崩壊、捕囚という苦い体験(民が、「裁く神」への畏れを嫌でも体験せざるを得なかった時期)からすでに幾許(いくばく)かのときを経た時期への言及であると推測されます。悲しいことに『喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れる』とは、普遍的に人間の常(つね)、本質なのです[18]。 アモン人の主神「モレクのところまで旅し」[19]は、「王(モレク)のところへ行き」という意味にもなることから、外交政策上「使者たち」を送ったという解釈もできますが、「あなたがたは、…子どもをほふっているではないか」[20]という件(くだり)から、異教神モレクに幼児犠牲を捧げたことに言及しているのかも知れません[21]。このように、主の御旨(みむね)からひどく懸(か)け離れて、オカルト、偶像崇拝、不道徳に染まって堕落している民の姿が訴えているのは、神の選民とはいえ罪の根絶が如何(いか)に難しいかということでしょう。何度神の恵みに与(あずか)っても、神の霊に満ちたカリスマ的な指導者がいなくなると途端に環境に染まり、悪に逆戻りしてしまう人間集団の情けない姿は今も昔も不変のようです[22]。56:1〜8で語られた理想的な世と、何と懸け離れた現実でしょう。 しかしそのような逆境の中にあっても、希望を捨てずに死んでいく「誠実な人」たちがまだ残されており[23]、彼らこそ究極的に「地を受け継ぎ、…聖なる山を所有する」[24]者たちなのです。主が許されておられる、この忍耐強く待つ期間は、いわば善と悪がふるいにかけられてますます明確に分け隔てられていく時期でもあるのです[25]。「辛抱強く信仰を全うしなさい」というメッセージは終末の末期に生きる今日のキリストの証し人に向けられたものでもあるでしょう[26]。
[1] 申命記23:1〜6、レビ記22:18〜25 欠陥のある動物は犠牲のささげ物として受け入れられなかった。 [2] ローマ人7:7 [3] 創世記12:3 [4] ヨシュア記6:24〜25の「ラハブ」、ルツ記1〜4章のモアブ人「ルツ」の例 [5] イザヤ39:7 [6] 5節、「わたしの家、わたしの城壁のうちで」、7節、「わたしの聖なる山」、「わたしの祈りの家」 [7] 4節、「安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ」、また6節、「主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった」 [8] 黙示録11:2 [9] マタイ21:12〜13 [10] ヨハネ10:16 [11] イザヤ56:10 [12] イザヤ56:11 [13] 9節、「野のすべての獣、林の中のすべての獣」 [14] イザヤ57:1〜2 [15] 57:3〜10から、異教の「豊穣祈願の儀式」や不道徳な慣習にイスラエルの民が関わっていたことが窺えます。 [16] イザヤ57:11 [17] 下線付加 [18] 士師記2:10 [19] イザヤ57:9 [20] イザヤ57:5 [21] 列王記第一11:7、列王記第二23:10 [22] 士師記2:16〜22、8:33〜34、17:6、21:25 [23] イザヤ57:1〜2 [24] イザヤ57:13 [25] マタイ13:24〜30 [26] 第二テモテ3:12〜4:1
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