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(2)4章 悔い改めない者への裁き
@ 1〜3節
神に対して富まない者の人生の終結は?と、アモスは霊的堕落に対する裁きを語ります。
「弱い者たちをしいたげ、貧しい者たちを迫害し(て)」、夫をあごでこき使うサマリヤの上流階級の婦人たちの邪悪さは、肥え太って生殖能力に秀でた勢力的な「バシャンの雌牛ども」にたとえられています
。すなわち、彼女たちは欲のおもむ赴くままに、本能で生きている動物的存在にしか過ぎないのです。神の似姿に似せて造られたはずの人間に、神の本質、特に愛、慈悲の反映がなければ、社会は自分中心に生きる者たちのどんよく貪欲を競うしゅらば修羅場と化します。ここでアモスは再び、社会的罪悪を霊的な罪としてとら捉えています
。
アッシリヤ軍に捕えられたしゅうじん囚人が鼻、あるいは、したくちびる下唇に取りつけられた釣り針にしっかりゆ結わえられたロープで痛々しくも引かれて行ったように
、その日、神の裁きの「釣り針」に掛けられた者はもう逃れることはできず、ハルモン(しいたげの山)へ捨てられることになるのです。このように神は、アッシリヤを用いて神のおきて掟から遠く離れた背信のイスラエルに、裁きを下されるとアモスは預言したのでした。
A 4〜13節
や病んだ社会の背後にはいつわ偽りの宗教が存在していることを、アモスは暴露します。
形式主義 に陥り、悔い改める姿勢のない 宗教は聖なる神のみむね御旨を損ない、間違いなく裁きの対象となります 。
反語口調で警告が語られている4〜5節には、「あなたがたはそうすることを好んでいる」(5節)と、指導者だけでなく民の側にもある意図的な罪が指摘されています。ベテルは、ダビデの家にそむ背いてイスラエル北王朝の最初の王、あくだま悪玉の代名詞にもなったヤロブアムが、北王朝のイスラエルの民が神の宮のあるエルサレム(南王朝の首都)へ年三回じゅんれい巡礼するのをそし阻止するため、異邦人の習慣を取り入れて「高き所の宮」を建て、エルサレム神殿に代わる新たな祭壇を築き、民にそこでの礼拝を強制させた、いわば、人間の手による宗教の大本山を象徴する場所でした
。ベテルはかつてイスラエルの族長のヤコブが、神のごりんざい御臨在に触れて「神の家」と呼んだ霊的覚醒の記念の場となったところでしたが、イスラエルの諸王の時代には、正反対の神へのえせ似非崇拝の場に成り果てていたのでした。神の御旨ではない場所に、御旨に逆らう崇拝が行なわれるようになったことは神の前に大きな罪となり、イスラエルの神への反逆の歴史がそれ以降、ベテル、ダンに設けられた祭壇から発展して行くことになったのです。
1節、申命記32:14、詩篇22:12
2節、3:14
列王記第二19:28、歴代誌第二33:11、エゼキエル19:4、:9、ハバクク1:15
4〜5節
6〜11節
12〜13節
列王記上12:25〜33
また多くの異なった場所が「ギルガル」と同じ地名で呼ばれていた ということは、至るところに数知れない宮が築かれていたということを表わしており、儀式の遂行を神礼拝にすげ替える形式主義がまんえん蔓延していたことを裏付けているのです。心の伴わない神崇拝は罪を倍増するだけで、形式主義は人間に達成感とけんじ顕示欲の満たしをもたらしはしても、まこと真の神信仰とは無縁で、むしろ神の怒りを買うことになる人間の宗教なのです。
神が命ぜられた犠牲のささげ物は少なくとも年一回であったのが 、「朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一」を捧げよ、というように、宗教が、神のおきて掟を人間の利にすり替えて、あげく挙句の果てには、『多く捧げれば、多くの祝福がある』と、誇張、偽りの強調を置き神の本来の御旨を損なうたぐい類のものであることを、アモスは指摘しているのです。それはまさに、神への穀物のささげ物にパン種を混ぜるという違反行為と同類の、神への反逆であり
、また、「進んでささげるささげ物」 は神に対する個人的な献身、感謝から捧げられるべき物であるはずなのに、公に告げ知らせるといった不純な動機に裏付けられた行為へと発展し、罪はいろいろな形を取ってエスカレートする一方でした。
ちまたに起こっている出来事を通して神のきゅうだん糾弾はさらに6〜11節へと続きます。飢饉(6節)、旱魃(7〜8節)、黒穂病(9節)、いなごの害(9節)、伝染病(10節)、戦争(10節)、地震(11節)は、民を悔い改めへと導くための神の七つの警告でした。形式だけを踏み、悔い改めを伴わない人間の姿勢は宗教ではあっても、まこと真の神崇拝ではないのです。
しかし、これらの災いが身辺に起こっても民は悔い改めることなく、神に立ち返ろうとはしなかったのでした。神の警告もついには止むときが来ます。神に真っ向から対面する裁きのときを民は覚悟しなければならないのです
。目に見える「山々」をも、見えない「風」をも、人間をも、人間の思いをもすべて支配しておられる神、あかつき暁から暗闇へと時の移りをも支配され、神の御手に届かない所はどこもないのです。「地の高い所」も、神の足台にしか過ぎない、そのような偉大なる「万軍の神、主」から、だれも逃れることはできないのです。
ヨシュア4:19,15:7
サムエル第一1:3、申命記14:28
出エジプト記23:18、レビ記2:11
レビ記22:18
12節
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